院長紹介

私の経歴を簡単にご紹介しますと、昭和59年に神戸大学第二内科に入局後、研修医の時は、神戸大学附属病院で内科を全科(消化器、内分泌、循環器、老年内科等)を1年研修し、昭和60年に県立加古川病院に配属されました。この病院には2年間勤務していましたが、診療内容は内科全般でしたが、その当時の加古川病院は糖尿病の患者様が他の病院より、多かった記憶があります。この頃はまだ、現在の胃内視鏡はなく胃カメラと呼ばれるものでした。見た目はそれほど変わらないのですが、違いは簡単に言えば、光学式のカメラのようなもので、今の内視鏡はデジタルカメラのようなものです。検査上の違いは、今の内視鏡は当たり前のように、モニターを見ながら検査していきますが、胃カメラはモニターを使うことはできましたが、暗くなってしまうので、胃カメラの手で支えてるところにファインダーがありそこから、観察していましたが、現在より画質も悪く、視野も狭かった記憶があります。腹部エコーもありましたが、画質が悪く、肝臓癌でも2cmで早期と呼ばれていました。大腸カメラもその頃から始めましたが、ほとんど上手に挿入できる医者はいなく、私自身も同様でした。県立加古川病院を2年勤務した後、神戸大学附属病院でも大腸内視鏡検査はしていましたが、大学病院でも同様でした。大学病院では肝臓グループに配属され、肝疾患の患者様の腹部エコーなどをしていましたが、数ヶ月後、愛仁会 高槻病院に勤務することになり、胃カメラ、大腸カメラ、腹部エコーなどを行いながら、一般内科の患者様の治療を行っていましたが、卒後2年ということで、それなりに指導もなく、診療ができるようになってきたためか、入院の受け持ち患者様の人数も多く、非常に忙しかった記憶があります。高槻病院退職後、半年間また大学病院に戻りましたが、次に埼玉がんセンターに勤務することになりました。消化器内科と臨床検査部の2つに所属されたため、帰宅は12時ごろで、遅いと夜中の3時ごろという生活でした。職務内容は消化器内科では胃、大腸内視鏡、エコー検査、入院での消化器癌の化学療法などでした。がんセンターを退職後、一時また大学病院に戻りましたが、その後日生病院第二内科に勤務することになりました。第二内科は現在の消化器内科で、第二内科で病院での胃、大腸内視鏡検査のほとんどを行っていました。またその当時C型肝炎の治療である、インターフェロン療法は事前に肝生検が必要だったのですが、肝生検をする医者がいなく、肝臓グループにいた関係もあり病院のほとんどのインターフェロン療法に関わっていました。またかねてより興味があった食道静脈瘤の硬化療法を任せていただき、治療自体にリスクがあると考えられていた(治療が失敗し吐血してしまう可能性がある)ので他の病院では、食道静脈瘤が破裂してからの、治療がほとんどでしたが、吐血後の治療では結局、肝不全になり、亡くなってしまうことも多かったため、吐血する前に、予防的に硬化療法を行っていました。硬化療法はとても神経の使う治療法でしたが、特に問題なく、すべて治癒させることができました。その後、硬化療法にかわり、食道静脈瘤結紮術という、静脈瘤を輪ゴムで結んでしまうという方法が考え出されましたが、この方法のほうがマイルドであり、治療にも熟練度を要さないため、徐々にこの方法に変わっていき、他院でも次第に吐血する前に、予防的に行われるようになっていき、今では予防的に治療するのがほとんどです。また私がその当時肝臓癌の局所治療として、肝臓癌に直接針を刺し、アルコールを注入するPEIT療法が行われていましたが、2cm以下の腫瘍であれば外科的手術と治療効果は変わらないため、積極的に、PEIT療法も行っていました。ただPEITでは不十分な場合も、指摘されており、その後、治療範囲はやや狭くなりますが、治療効果がより確実な、電子レンジにつかうマイクロ波を使って腫瘍を焼く治療法(PMCT)が開発され、私もそれも併用して行っていました。現在は両方のメリットを持つラジオ波による局所療法が主流となっています。日生病院の8年間の勤務中、消化器特に肝疾患がメインでしたが、同じ病棟に神経科もあり、神経科にも興味をもつようになり、約15年の勤務医をへて、クリニック開院後は心療内科もあわせて診察するようになりました。勤務医時代には、往診および在宅医療などはなかったのですが、ケアマネジャーの資格もとり、また西宮市の介護認定審査会の審査委員も勤めており、その方面にも力を入れています。

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